鈴木七右衛門の碑

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鈴木 七右衛門 重秋

( すずき しちえもん しげあき )
江戸時代後期:和歌山県西牟婁郡日置川町(現・白浜町)安居地区の庄屋。

安居用水の誕生

和歌山県西牟婁郡日置川町(現・白浜町)向平地区から安居地区の水田に至る、「安居(あご)用水」と呼ばれる古い水路がある。 江戸後期、鈴木七右衛門重秋は、村民と共に開削を試み通水を見た。この暗渠(あんきょ)の築造にあたり、 鈴木家を筆頭に地域農家が総出で労力を提供した。記録によれば、鈴木家は資金面、掘削工程や資材調達の指揮も担い、 完成後も維持管理を続けた。

安居用水の規模

全長
約273m
高さ
2.7m
約1.3〜1.8m

手掘りの暗渠(地下水路)であり、いまなおその痕跡が山腹に残る。藩費380両、村費・私費、各400余両、 総工費約1200両。

水利に恵まれなかった村々

天明の大飢饉による壊滅的被害

安居村周辺は古来より水利に乏しく、旱魃(かんばつ)のたびに凶作が相次いだ地域であった。特に天明の大飢饉(1780年代)では、 日置川流域の村々も壊滅的な被害を受け、安居・寺山の両村でも稲作が全滅し、400名もの村民が飢えに苦しんだ。

日置川が村の目前を流るも、川床が低く高い陸地の為に、田畑に水を引く事ができなかったのである。

立ち上がった庄屋

この苦境を救おうと立ち上がったのが、当時の安居村庄屋、鈴木七右衛門重秋であった。家系は紀伊国名草郡藤白浦(現・海南市)の鈴木三郎の庶流と伝わる。 藤白神社の神官を務めた家柄で、熊野信仰・王子信仰と深い縁を持つ。永享(えいきょう1429-1441)の頃、洪水にて家記を失われたが、 安居の鈴木家は庄屋として周辺の村民を支え、大辺路街道の巡礼者を迎えたとされる。

先代の遺志を継ぎ、金比羅山を掘り抜く

前例のない構想

場所は、日置川対岸の向平(むかいだいら)地区と寺山地区の間。当時ここを直線で結べば130歩ほどの距離だが、 川は山を大きく迂回し、流路は二十余町(約2.2km)にも及んでいた。 重秋は「祖父が言い残したのは、寺山から向平との直線の距離は百三十歩。川は山腹を斜に出て 二十余町と一里ばかりを経て安居に達する、との事。つまり向平と寺山の間の山腹に暗渠を穿ち水を通せれば、 二村の田に水を引き入れる事ができる」と説いた。 当初、この規模の工事は前例も無く無謀である、という者もいたが、懸命な説得の末、村民の賛成と幕府の助成を得るに至る。

重秋の父もまた、かつて暗渠開削を夢見ていたという。金比羅山を貫き、日置川の水を村へ引く— 重秋は父の志を受け継ぎ、ついに寛政11年(1799)、暗渠の掘削に着手する。

寛政11年(1799)
— 工事着手 —

作業は両側の村民と共に始められたが、岩盤が非常に堅く、三年を費やしても三分の一しか進まない難工事であった。 人夫の多くが作業の過酷さに耐えかね去る者さえいたが、重秋は「高さを保ち、硬い岩盤を避ければ必ず貫通できる」と 励まし続け、自らもノミを振るい続けたという。

工事期間中
— 私財を投じた不撓不屈の歳月 —

費用は見込みの三倍に膨れ上がり、年の暮れには大勢が取り立てに来たが、重秋は私財を投げ打ち、 借財まで重ねながら工事を進めた。 食を断ち、寒中には水垢離(みずごり)を行い、香を焚き、経文を唱えながら神仏の加護を祈り、 不撓不屈の歳月を過ごしたと伝えられる。

文化2年(1805)5月
— 貫通の日 —

こうして5〜6年にわたる難工事の末、文化2年(1805)5月、ついに暗渠は貫通した。日置川の清流は若葉の田を潤し、 村民たちの歓声は天を震わしたと『安居村暗渠碑』は伝える。

功績の評価

この偉業に対し、紀州藩11代藩主徳川治宝(はるとみ)は重秋の功績を称え、地士(郷士)の称号を与えた。

また、文人仁井田好古(にいだ こうこ)によって撰文・書が施された「安居村暗渠碑」が建立され、碑文には 重秋の人徳と不屈の志が刻まれた。 碑には「起工より七年、ついに水路開く」と記されるが、実質的な工期は寛政11年着工〜文化2年完成の約6年とされる。

その後の歩みと文化財としての再評価

200年間の役割

安居の暗渠は、完成以来およそ200年の間、田畑を潤し続けたが、年月とともに取水口付近には土砂が堆積し、 浚渫や補修に多大な費用を要するようになった。平成末期、ついに農業用施設としての維持管理を断念する事となり、 長きにわたる用水としての役割を終えた。

文化遺産として

今日では、通水が止み内部を再び観察する事が可能となり、岩盤を貫く手掘りの石組みや、 当時の土木技術の粋がそのまま残されており、 貴重な近世土木遺構として再評価されている。(暗渠は要立入許可)

安居の地に残るこの暗渠は、単なる旧水路ではなく、
地域の自助と信仰、そして先人の手業を伝える文化遺産として、
静かに現代に語りかけている。

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